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高野悦子さんのこと

23 名前:匿名さん:2006/06/22 08:05
>>22 の続き

(次の<< >>は一緒にバイトした立命館男性三人組の一人Aの話)

<< 自殺する直前のバイトの日、彼女は夜8時10分前ごろ、皿洗い場前のエレベータから出てき
た。バイトは夕方から始まり、いつも最初に出会ったときは「おはよう。」と挨拶した。皿洗いを
していた私はその日まだ挨拶をした記憶がなかったので、「今日、初めからいた?」と聞いたら、
「ううん。」と答えて中に入っていった。そのときの様子が一人でうつむきかげんで、どことなく
元気がなさそうだったのが気になったが、普段から、ちょっと話をするだけだったので、そのまま
、話もしなかった。次の日、自殺をしたと聞き、そうだったのかと思った。

ビヤガーデンではレコードを流していた。シャンソンの「枯葉」の入っているLPと歌謡曲の
「ブルーライト横浜」が入っているLP、それと「京都神戸横浜」の入っているLPの3枚を気づ
いた者が流していた。私は歌謡曲の二枚が好きで交互にかけていた。彼女は「枯葉」のLPを流し
た。彼女に、「夏のビヤガーデンで秋の寂しい曲を流すのは場所に合わないから、『枯葉』はかけ
ないほうが良い。」と言った。しかし彼女は機会があれば、そのLPをかけていた。>>

彼女は口数が少なくいつもおとなしかった。あまりみんなと馴染むことはなかった。
私たちも彼女が学生運動に関わっていることを知っていて、何となく近寄りがたかった。

 アルバイトの賃金は時給150円。それに夕食がついた。ご飯とみそ汁と漬け物とおかず。貧乏
学生にとっては大助かりの好条件だった。
 市電は入学時(昭和42年)が15円、昭和47年頃は25円。生協のラーメンが45円、定食
55円というのもあった。入学式の時のこの定食は鯖の塩焼き、ニンジンとダイコンのなます。
式について来た父がえらく気に入っていしまって、毎日これにしろ、と言った。下宿の近くの食堂
は120円の定食。鯖の塩焼き、茶碗蒸しなどがついた。ラーメンが70円だったから仕送りが来
ると100円札二枚を持って行き、定食とラーメンで腹一杯になって帰ってきたものだった。
 当時の立命館は、広小路と衣笠にキャンパスがあった。
総長は末川博氏。高名な民法学者だった。岩波書店の六法全書を編集された。
大学の運営に学生も参加させる(全学協議会)体制を構築し、立命館民主主義と呼ばれた。
学生との団交でもほほえみを絶やさず、学生を慈しみをもって見ていた
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