NO.10440045
◆ 「法科万能」 ◆
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98 名前:94:2005/05/05 14:21
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>>97
まず始めに、「プゲラ」なる不穏当な表現を使ったことを謝罪します。
(まさかこんな丁寧なレスが返ってくるとは思ってなかった・・・)
>ここで問題だと僕が思うのは、現在法について議論をする・決定権は
>テクノクラートではない人には全くといっていいほど、ない
ふむ、それは同感ですね。私は、間接民主主義というのは、極端な言い方ですが、「権力者の意思決定を正当化する装置」だと思
っています。「議員を選ぶ」という「儀式」を通して「民意が反映された」という神話を作り、その神話によって権力者の意思決定が正当
なものであると広く国民に錯覚させ、統治をスムーズにする道具だと。間接民主主義は民意を反映しているとは思っていません。
(かといってまったく民意を反映していないわけでもない、とか、民主主義神話なんてとっくに崩壊しているじゃないか、とか、
そもそも民意を反映することはそんなに重要なことか、など、いろいろ論点もあるのですが、くどくなるので略)
結局のところ、法は一部の権力者に独占されている。そこで広く意見を吸い上げる制度が求められるのでしょうが、
さて具体的にどうしたもんでしょうね。1億人を見る護民官なんてちょっと考えにくい(だから間接民主主義なわけで・・・)。
>とてもではないが現代にはマッチしない法律はあるはず
>それを変えて、現代の感覚になぜ持っていこうとしないのだろうか?と思う人は少なからずいると思うのだが…。
感覚うんぬんのまえに、立法的解決をすれば簡単なのに、判例によりむりやり法を創造しているケースが目立つのが腹立つな。
民法第三部をやっていて一番腹が立ったのが譲渡担保。なんであれ、立法的解決をしないの?所有権的構成と担保的構成の議論
って不毛じゃないか?ちゃんと譲渡担保を法律で規定しないから、こういう法学徒を無駄に疲れさせる学説対立が起きる。(そもそも物権法定主義とやらはどこにいったんでしょうねぇ・・・)
>ところが法律家は「それが正しいのだ」と大学で洗脳されて
>しまうため、変えようとしない。
「現代の感覚になぜあわせないのか」という問題については、少なくとも二つの見方があると思う。「概念法学に毒されている」「思考停止
して現状を安易に肯定しているだけ」という見方もあるだろうけど、一方で「法を一部の人間により独占するために
あえてわかりにくくしている」という見方もできる。商法、というか会社法はしょっちゅう改正されている。商法典はカタカナ文語ですが、
改正条文もわざわざカタカナ文語になっている。これはおかしいと思う。分かり易い現代国語を使えばいいではないか。カタカナと
ひらがなが混じると見栄えは悪いかもしれないが、新しい条文までわざわざわかりにくい言葉を使うことはなかろう。
わざとわかりにくい文章にすることで、非法律家が法に触れにくくしているのではないか、法律家が法を独占するためにやっているので
はないか、という疑念が私にはある。この手法は古くからある。例えば、新約聖書はギリシア語の一種で書かれているが、中世
ヨーロッパではラテン語に訳され、ルターの時代までラテン語だった。ラテン語に訳してよいならドイツ語やフランス語に訳してもよいはず
だが、あえて民衆の使わない難解なラテン語のみにすることで、教会が聖書を独占し、教会の権威を高めた。
(蛇足。日本の仏教はいまだにそうだ。サンスクリット語の仏典を中国語に訳して使っていて、日本語に訳そうとはしない)
「現代の感覚とのずれ」を立法論ではなく解釈論で解決しようとするのは、結局行政府司法府の権力掌握のためのような気がする・・・(立法府側の怠慢もあるのでしょうが、ね)
疲れてきたので、この辺で。