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◆國學院大学日本大学の創設歴史について検証してみたい

0 名前:名無しさん:2005/12/23 22:37
明治維新の際、わが国の急務は、まず、世界の先進国に追いつくことであった。
そのため、欧米列強の思想、文化、体制の導入が急がれ、その余り、欧化万能の風潮がわが国をおおう有様となった。
しかし、わが国が独立を全うし、国家の発展を将来に期するためには、思想も文化も体制も、単に欧風の模倣でなく、
わが国の歴史・民族性に基づくものでなければならない。
國學院大學の母体である皇典講究所は、このような反省の気運を背景として、 明治15年に創立された。
11月4日の開校式当日、有栖川宮幟仁親王は初代総裁として教職員・生徒に対して、次のような告諭を述べられた。
「凡学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ、故ニ国体ヲ講明シテ以テ立国 ノ基礎ヲ鞏クシ、徳性ヲ涵養シテ以テ
人生ノ本分ヲ尽スハ百世易フベカラザル 典則ナリ、而シテ世或ハ此ニ暗シ、是レ本黌ノ設立ヲ要スル所以ナリ」
國學院大學建学の精神はこの告諭の「本ヲ立ツル」ことを基底としている。
元学長芳賀矢一博士作詞の校歌は、この精神を正しくうたいあげている。
この建学の精神こそ、本学の学問研究・人間教育を特色づけるものである。
1 名前:匿名さん:2005/12/23 22:41
 明治22年、東京府麹町区飯田町(現在の千代田区飯田橋)の皇典講究所内に創設された日本法律学校が、本学の始まりです。
 当時の我が国は、文化開花華やかな鹿鳴館時代であり、世を挙げてヨ-ロッパ崇拝が続いていました。法学者の間でもイギリス法、フランス法、ドイツ法の3派に分かれ、激しい主導権争いが繰り広げられていました。
そうした気運の中にあって、時の司法大臣で、また皇典講究所の所長であった山田顕義は、
「まず国家形成と国民意識の向上を確立しなければならない。日本の永い歴史の中で日本人としての主体性を尊重する重要な事項を講究する時期にある」
ことを痛感し、日本の歴史的、社会的伝統や慣習に根ざした教育の必要性を感じたのです。
 
2 名前:國學院設立趣意書:2005/12/23 22:43
人ノ世ニ在ルヤ、各其本国ニ繋属ス、故ニ故国ヲ愛重シ、
其君ニ忠実ナルハ人ノ徳義ニ於テ当然至要ナル者トス、
近時各国人ヲ教フル法、必先其国史・国文・国法ヲ授ケ、
次ニ百科ノ学ニ従事セシムルヲ常トス、是蓋人ヲシテ先其国、
其君ニ於ケル、忠愛ノ良心ヲ萌生シ、靄然トシテ赤子ノ
慈母ヲ慕フカ如ク、親和密合シテ離ルベカラズ感想アラシメ、
然ル後始メテ立身治生ノ道、開物成務ノ業ニ進マシメントスルニアリ、
故ニ其効果ハ以テ民タルトキハ善良ノ民タルベク、
以テ兵タルトキハ義勇ノ兵タルベク、以テ官吏タルトキハ
公平正直ノ官吏タルベク、多士済々トシテ挙ゲテ
皆君ニ忠ニ国ヲ愛スル精神ヲ興起セザルハ無キナリ、
各国其国体ヲ異ニシ、君其姓ヲ更ヘ、民其統領ヲ立ツル国ニシテ
昔臣民ヲ教フル方法猶此ノ如シ、顧ミルニ本邦ハ
万世一君覆帳ノ下ニ無二ノ臣民アリ、親和密合シテ
離ルベカラザル情義ヲ存スルハ、建国以来終始一貫火ヲ観ルガ如シ、
然ルニ輓近内外本末ノ弁、大ニ其宜ヲ得ズ、其弊延イテ教育ニ及ビ、
公私学校ノ設甚多シト雖モ、国学ヲ先ニスル方法未行ハレサルハ、
余輩ノ痛歎ニ堪ヘザル所ナリ、余輩ハ、夙ニ本邦固有ノ学術ヲ研究シ、
皇室ノ尊厳ナル所以、国体ノ鞏固ナル所以ヲ講明シ、
人情ノ基ク所、風俗ノ由ル所ヲ尋繹シ、国民ヲシテ益国家ニ忠愛ナル
徳義ヲ深厚ナラシメンコトヲ希ヒ、前ニ生徒ヲ養ヒ、
講筵ヲ開キ本邦ノ典故文献ヲ講究スル方法ヲ設ケシモ、
規模猶未大ナラザル憾アリ、今ヤ機運ノ漸熟スルヲ以テ、
生徒教養ノ法ヲ改正拡張シ、茲ニ國學院ヲ設立シテ専国史・国文・国法ヲ攷究シ、
我カ国民ノ国家観念ヲ湧出スル源泉トナシ、皇祖皇宗ノ謨訓ニ基キ、
固有ノ倫理綱常ヲ闡明シ、且、支那・泰西ノ道義説ヲ採択シ、
以テ之ヲ補充シ、以テ国民ノ方向ヲ一ニシ、
古今一貫君民離ルベカラザル情義ヲ維持セントス、
固ヨリ此ヲ以テ宗教、若クハ政党ノ器用トナスニ非ザルナシ、
若夫レ進ミテ人文ノ発達ヲ追ヒ、世務ノ必要ニ応ズルニ至リテハ、
海外百科ノ学モ網羅兼修シテ此学ノ進歩拡張ヲ計ル可シ、
之ヲ要スルニ、本院設立ノ趣意ハ、我カ国民ノ国民タル忠愛ノ精神ヲ発揮シ、
知育ヲシテ国体ニ基ケル徳育ト共ニ併進セシメンコトヲ期スルニ在リ、         
明治二十三年七月 山田顕義
3 名前:匿名さん:2005/12/23 22:45
 皇典講究所では、従来より国法として古代法制の講座が開かれていましたが、新時代を生きる青年を対象とするには決して満足のいくものではありませんでした。
そこで山田顕義は、こうした日本の伝統的精神を生かしながら、更に新しく生まれる諸法をも積極的に研究対象として学べるような学校を設立しようと考えたわけです。
そのためには、ヨーロッパ文化からも摂取すべきものは大いに学ぶべきだ、という姿勢を持っていました。草創期から早くも「世界的視野」を念頭に置いていたという点は注目されるところです。
 そして明治22年10月3日に、日本法律学校の設立願書を同志多数の連名で東京府知事に提出、翌4日に認可をうけました。
この認可をうけた10月4日が、日本大学の創立記念日となっています。
4 名前:匿名さん:2005/12/23 22:47
 毛利家の菩提寺・護国山東光寺の近くにあり、「顕義園」として整備されている。
これは日本大学が建学90周年を記念し、謝恩の為に昭和54年に建設したもので、高さ1.1mの台座に建つ高さ2.4mの「山田顕義先生之像」が印象的で、萩市の遠望も楽しめる。
弘化元年(1844)に萩藩士山田七兵衛の長男として生まれ安政5年15歳の時に松下村塾に入門した。吉田松陰にとっては最年少の門下生だったらしい。
顕義の功業は青年時代においてなによりも軍功であった。明治元年に始まった戊辰戦争は五稜郭開城により終わりを告げるが、顕義の戦功が大きい。
また、明治政府の根幹を揺るがしかねなかった二つの乱、明治7年江藤進平らの佐賀の乱、明治10年西郷隆盛らの西南戦争の鎮定に尽力し、陸軍中将に進んだ。
その後日本の近代化に傾注し、特に明治18年第一次伊藤博文内閣においては司法大臣として法典編纂に貢献し、法典伯と称された。
また、教育を重視し、明治22年日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年國學院を設立、その後公私法律学校を育成した。
明治25年旧藩主毛利敬親銅像起工式列席のため帰郷、帰途生野銀山で急逝した。享年49歳。東京都文京区護国寺に葬られている。
http://www.city.hagi.yamaguchi.jp/portal/miru/shouin/html/yamadaakiyoshi.html
5 名前:國學院大学の沿革:2005/12/23 22:54
明治15年の皇典講究所の創設
明治15年に創設された皇典講究所は、皇室の援助や歴代総裁宮をはじめとする関係者の努力により営々とその業績を築いてきた。
時代の進展とともにまず補充中学校を開設する。同校は「共立」「城北尋常」「城北」と順次名を改め、明治34年に「府立第4中学校」となり、昭和25年には「都立戸山高等学校」となり今日に至っている。
次いで、国法を専修する「日本法律学校」(現在の日本大学)を開設した。
明治23年の國學院の設立
「國學院設立趣意書」に詳細に記されているごとく、国史・国文・国法を攷究する本科3年と研究科2年の教育機関である「國學院」が設立された。
6 名前:國學院大学の沿革:2005/12/23 22:56
明治30年代の國學院大學
明治31年に財団法人の認可を受け、経営的基礎の確立を計られたが、明治35年、39年の2度の火災や創設中心者の相次ぐ死去によりその経営は必ずしも順調ではなかった。
明治36年9月、第一回卒業生を世に送った以後、経済的理由により自然休校していた研究科を再開し、明治37年専門学校令による専門学校に昇格。
その機会に大学部予科2年と大学部本科3年を設置。従来の国語漢文歴史科を師範部国語漢文科、歴史地理科とし、別に専修部を併置、三部制とした。明治39年6月には「私立國學院大學」と改称した。
大正9年の大学令による大学昇格と渋谷移転
大正7年12月の大学令公布に基づき、大正9年に大学令による大学に昇格。
大正9年4月2日付の東京日日新聞の記事によれば「臨時教育委員会は四月一日午後一時半より永田町文相官邸に於いて開会、一木副会長、山川、木場、沢柳、神野、平沼、関、金杉、鎌田、岡野、江木、三土各委員、中橋文相、南次官、松浦専門学務局長出席、
前回に引き続き明治、中央、日本、國學院、法政、同志社の六私立大学を、新大学令により設立を認可するの件を付議し、各委員より文部当局に対し質問或いは意見の陳述あり<中略>六大学昇格を認可すべきものと決議したり」とある。
また、学生数の増加に対処するため、大正7年に拡張計画に着手。大正11年10月、校地を渋谷氷川裏の御料地、現在の渋谷若木か丘に求め、大正12年5月に新しく竣功した新校舎に移転した。
7 名前:國學院大学の沿革:2005/12/23 22:59
昭和初期の発展と戦後皇典講究所の解散と國學院大學
 昭和10年頃までの本学は発展の一途をたどり、本学の歴史の中でも「黄金期」というべき華やかな時代を迎えた。
しかし、第二次世界大戦後、GHQ(占領軍総司令部)は、神道指令を発し神社に圧迫を加えるが、
GHQの意図が神社神道から国家的性格を除こうとするもので、宗教としての神道を抹殺しようとするものではないことを知り、本学は信教の自由という立場から神道精神に基づく学校として財団法人となし、
合わせて経営母体である皇典講究所を解散させて新発足し、新時代の要請に応え得る大学への脱皮を図った。
8 名前:國學院大学の沿革:2005/12/23 23:01
昭和20年代の國學院大學
昭和21年、他大学に先駆けて男女共学制を採用。
昭和23年には新制文学部、翌年には政治学部(昭和25年政経学部と改称)と文学部第二部を開設。
昭和26年、学校法人國學院大學に改め、旧制学部第一部、専門部を廃止、政経学部第二部を開設し、大学院文学研究科神道学専攻・日本文学専攻の修士課程を開設、文学部神道研修別科を開設。
昭和27年には日本史学専攻の修士課程を開設。
また昭和28年には、旧制第二部文学部を廃止、日本文学専攻・日本史学専攻の博士課程を開設
昭和30年代の國學院大學
昭和30年「日本文化に関する精深な研究を行い、これを汎く世界文化と比較しつつ、民族的伝統の本質と諸相とを把握すること」を目的とした日本文化研究所を設置。
昭和33年には神道学専攻の博士課程を設置し、神道専修科を神道専攻科に改めた。昭和35年には、栃木県栃木市に栃木高等学校を開設(昭和38年姉妹法人として独立)。
昭和38年には、創学以来の懸案であった法学部第一部を開設した。
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